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記紀の時代にまで溯ります。『日本書紀』の崇神紀に「掌酒活日(さかびとのいくひ)」という人が、酒を造って崇神天皇に奉ったという記事が出て来ます。この人には1夜で酒を造ったという伝承もあり、酒の神様として知られる奈良県桜井市の大神神社の境内に、この人を祀った社もあります。
神話の時代はともかく、奈良に都のあった奈良時代のお酒はどういうものだったでしょうか。平安時代の初期に成立した『延喜式』。これは宮中の儀式や制度の事務規程集というようなものですが、ここにくわしく書かれています。
たとえば、[御酒(ごしゅ)]というのは、天皇への供御酒(くごしゅ)や節会のときに用いたもので、発酵した醪をこし、こした酒を仕込み水代わりにして、また米と米麹を仕込む、これを4回繰り返して造ったとあります。これはかなり甘いトロリとしたお酒になったことでしょう。ほかにも「醴酒]とか[頓酒]とか[熟酒]とかいうお酒が造られていたようです。
しかしもちろんこれらは宮中のことでありまして、下級の役人とか一般庶民はなかなかこんなお酒は飲めません。有名な山上憶良の貧窮問答歌─「風雑り雨降る夜の〜」という歌ですね。ここに[糟湯酒]というのが出て来ます。これは酒粕をお湯で溶いたものだと思われ、こういうものを飲んでいたのでしょう。 |
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室町時代の終わり、信長、秀吉、家康という新しい時代の指導者たちが活躍した時代。この時期はまた日本酒の歴史にとっても画期的な時代です。これが奈良の地と深く関わっています。
室町時代の酒造りは、[僧坊酒]と言い、お寺でお酒を造っていました。奈良の僧坊酒としては中川寺、長岡寺などがありますが、何と言っても有名なのは菩提山正暦寺です。ここで初めて[諸白(もろはく)]のお酒が造られたと言われています。[諸白]は[両白]とも書き、両方とも白いという意味です。両方というのは、麹米と掛米のことです。お酒は米から造りますが、麹を造るための米と、仕込みに使うお米=掛米、この両方ともが白い、つまり精白したお米を使ったということです。これは今から見ますと当たり前のことで、現在の日本酒はすべて[諸白]です(玄米酒というのもありますが…)。その[諸白酒]がここから始まったというわけです。それまでは[片白]といいまして、一方が黒い米、つまり玄米を使っていたんですね。
この正暦寺で造られたお酒は、[菩提泉(ぼだいせん)]と言い、江戸時代に寒造りが定着する以前は、暑い時期にもお酒が造られていたわけですが、そういう温暖な時期の仕込み方法としてはなかなか合理的なものでした。簡単に言いますと、初めに乳酸で酸性にして雑菌の繁殖をおさえながら酵母菌を増殖させるというものです。
こういった僧坊酒の酒造りの技術は『多聞院日記』という興福寺の塔頭であります多聞院のお坊さんの日記に出て来ます。この日記でもうひとつ重要なのは、永禄11年(1568)6月の日記に出てくる[酒ヲニサセ]という記事です。これがお酒の火入れ(加熱殺菌)の初見です。遅くともこのころには、現在も行われている火入れが行われていたということがわかるわけです。
ところで、先程の奈良の諸白。[南都諸白]と言われておりましたが、これが大阪の河内長野の天野山金剛寺で造られていた[天野酒]に匹敵するともてはやされました。天野酒は「天野比類無し」と称賛されるほどの名酒だったらしく、豊臣秀吉も愛飲し、金剛寺に朱印状も与えました。[南都諸白]も負けてはおりません。天正10年(1582)5月のこと。織田信長は、徳川家康を安土に招き盛大にもてなします。このとき家康の接待の責任者が明智光秀で、このとき光秀に落ち度があったため役を解かれ、中国へ出陣を命じられたのが、この数日後に起こった本能寺の変の原因のひとつだなどとも言われておりますが、それはさておきまして、このとき家康をもてなしたお酒が正暦寺で造られたお酒です。この[南都諸白]に信長も家康も、そのほかの武将たちも大いに喜び褒めたたえたという記事も出て来ます。 |
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| 酒造りの中心は、池田、伊丹へ移り、さらに灘五郷へと移っていきますが、奈良はお酒造りの発祥の地であり、酒造技術においても先進地でした。今日の酒造技術の基礎を造ったのが奈良のお酒であると言っても過言ではありません。誇りある奈良酒の歴史に思いを巡らせながら、今宵、梅乃宿を一献…、傾けてみてください。 |
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