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新蔵物語

創業以来、開拓者精神をもって酒造りに勤しんできた梅乃宿。 清酒を巡る環境が大きく変化する中、ブランドコンセプトである 「新しい酒文化を創造する蔵」を体現すべく奮闘してきた「蔵」を巡るものがたり。

新蔵ものがたり 第7回

ヒット商品と日本酒蔵としての誇り

リキュールの好調で梅乃宿が業績を回復していくと、「日本酒蔵がとうとうあんなもんにまで手を出して」という声が同業から上がるようになっていきました。実際、後に五代目となる佳代が酒造組合に顔を出すと、「リキュールばっかり造ってやんといい日本酒造ってや」と面と向かって皮肉をいわれ、「次につぶれるのは梅乃宿さんや」という声まで聞こえてきたほどでした。また百貨店などの販売会に出向くと、「梅乃宿さんはリキュール蔵やから」と、他の日本酒蔵として並んでブースを構えることを良しとしない空気もあったようです。

それでも梅乃宿は、先にもふれたように全国新酒鑑評会で4年連続金賞を受賞するなど日本酒蔵としての気概を見せ続けていました。その背景には、杜氏と蔵人の丹精込めた仕事ぶりもありましたが、加えて、補助金で各種分析機器—例えば、気体や液体を分析するガスクロマトグラフィー装置や溶液の濃度分析などに用いる分光光度計など、最新機器の積極的な導入も行っていました。

今でこそ、鑑評会に出品するために分析機器を駆使して傾向と対策を練るのは当たり前です。しかし、まだまだ五感に頼った日本酒造りが主流だった2000年代初頭に、小さな日本酒蔵が高額かつ高度な機器を導入し、数値の見える化を図るというのは極めて珍しいことだったようです。社員の中からも「あれは何の機器やろ?」という声が上がっていたのを耳にした覚えがあります。

季節商品としての色合いの強い日本酒に対し、梅酒などのリキュールは毎月コンスタントに売れていく商品です。新酒鑑評会での高評価は蔵のブランドイメージを押し上げ、一方で梅酒に続くあらごし梅酒によって2000年代半ばを過ぎる頃には少しずつながらキャッシュフロー(現金収入)が安定。資金繰りが改善する予兆を暁は感じ取っていました。

こうして危機を脱する兆しをつかんだかに見えた梅乃宿に、ある日、梅酒のヒットを揺るがすようなある連絡が舞い込んだのでした。

梅酒に持ち上がった「名前」問題

その連絡とは、梅酒とあらごし梅酒に用いていた「鶯梅(おうばい)」という名称に関するものでした。

このものがたりの第1回でご紹介したように、梅乃宿という社名は、初代が構えた蔵の庭先にあった梅の木と、そこに飛来した鶯(うぐいす)に由来しています。そんな縁もあり、梅酒をはじめた2002年(平成14年)当初から、梅乃宿は梅酒を「鶯梅」と名付けて販売。次いで誕生した果肉入り梅酒は「鶯梅にごり梅酒」と命名して売り出していました。

その鶯梅という名称に関し、九州のとある酒蔵から「既に当方で商標登録済みです」という連絡が入ったのです。

梅酒販売から数年は何の問題もなく過ぎていたのですが、皮肉なことに果肉入り梅酒の大ヒットによって、九州にもその存在が知られることになったのでした。

すぐさま弁理士と解決策を相談して行き着いたのは、次のいずれかを選択するというものでした。1つは、「鶯梅」という名前をやめて名称を一新するというもの。もう1つは、ライセンス料を払って名称を使い続けるというものです。

「せっかく売れているのに、ここで名前を変えるのか・・・」。果肉入り梅酒のヒットによって梅乃宿の「鶯梅にごり梅酒」という名は既に広くお客さまに浸透していました。苦難の末にようやく得た稼ぎ頭だったが故に、容易に決断を下すことができなかったのです。

それでも最後は自社製品の品質力を信じ、名称変更を決定。2006年(平成18年)、梅酒は「梅乃宿の梅酒」として、鶯梅にごり梅酒は「あらごし梅酒」として、改めて出発することを決めたのでした。

この商標にまつわる経験は、梅乃宿に2つの気づきをもたらしました。

1つは、商標という概念です。地元周辺を商圏としてきた地酒蔵の時代ならさほど意識する必要のないことでしたが、全国さらには海外をも視野に入れることを考えると、「商標をしっかり意識せなあかん」と実感する契機となったのです。

そしてもう1つが、さまざまなことに社内で取り組む姿勢の大切さです。実際この後、商標については自社で調査・出願・登録を行うなど、社外ブレーンにアドバイスを仰ぎつつも、さまざまなことに社内で自分ごととして取り組む姿勢が形作られていくことになりました。

次々に誕生!リキュールのヒット連発

あらごし梅酒の成功を受け暁は、2006年(平成18年)にゆず酒、翌年にはあらごしももと、リキュールの新作を矢継ぎ早に投入していきました。そこには、日本酒やワインとは異なり、リキュールは新商品で次々に目先を変えて売っていくスクラップ&ビルドの商品だという暁の考えがありました。その考えに呼応するように、若手から「みかんはどうですか?りんごは?」など、次々に新しいアイデアが飛び出す環境が生まれていました。

特にゆず酒は、女性社員の声から生まれたものでした。果汁率が高くゆずの風味と香りを存分に味わえる、いわゆる酒飲みの感覚とは違うアプローチが、国内にとどまらず海外にも広がる、爆発的なヒットにつながっていったのです。

蔵の伝統をかたくなに守るだけではなく、若手が活発に意見を言い、新しいものに積極的に挑戦する梅乃宿の気風がリキュールの成功を呼び込んだと、当時を振り返り暁がつぶやくのを耳にした時には、吉田家の庭先に棲む梅の木ながら、私の胸にも迫るものがありました。

こうして、梅酒をめぐる商標の問題はあったものの無事に乗り越え、リキュールのヒット連発で梅乃宿の業容は一気に好転したかのように思われたかもしれません。

しかし2000年代前半、社員が「暗黒」と称した時代からはい上がるのは、当然ながら並大抵のことではありませんでした。

ヒット商品誕生、売上V字回復の裏には、酒を入れたケースを背負って歩き回った営業マンや、資材切れに苦慮しながらも出荷をこなした商品管理担当など、それぞれの持ち場でもがき、あがいた社員の姿があったことをお話ししておかなければならならないでしょう。

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