新蔵物語
創業以来、開拓者精神をもって酒造りに勤しんできた梅乃宿。 清酒を巡る環境が大きく変化する中、ブランドコンセプトである 「新しい酒文化を創造する蔵」を体現すべく奮闘してきた「蔵」を巡るものがたり。
新蔵ものがたり 第8回
暗く、厳しい「夜明け前」にもがく
2000年代はじめから半ばにかけては、梅乃宿のいわば「暗黒」時代だったとお話ししました。梅酒をはじめとするリキュールで活路を見いだそうとしていたものの、売上はすぐには好転せず、暗く重苦しい空気が社内を覆っていました。「夜明け前が一番暗い」という言葉を耳にすることがありますが、当時の梅乃宿では、社員がまさに夜明け前の暗闇の中を、もがきながら進んでいたのです。
そこでここでは時間を少しさかのぼり、リキュール成功前夜からの社内の様子をお話ししたいと思います。
売上が低迷していた当時も「人材は宝だ」という考えのもと、暁は積極的に採用活動を続けていました。それというのも、暁が30〜40代に青年会議所に参加していたおり、社長の急逝などによっていくつもの会社が急速に傾く様子を目の当たりにしていたからです。
「脈々と続く企業は、若者や創業家以外の人材がもり立てている。社長に何があっても、会社が順調にいくように人を採用し、人材を育てなあかん」。これが暁の信念の1つになっていたのです。
2000年(平成12年)には、後に部長となる福山が入社。人間関係や雰囲気は悪くないと感じたものの、社内に目を転じるとパソコンの導入はまだまだで、売上や在庫管理、営業成績も紙の伝票がベース。リアルタイムでの数字の把握にはほど遠い様相だったのです。
そのため、酒類の製造・販売状況を把握するために国税庁が行う数年に一度の「酒税調査」の前は大わらわ。社内が上を下への大騒ぎになっている様子は、吉田家の庭先に立つ梅の木の私にも伝わってきたほどでした。
2004年(平成16年)に入社したのは、後に取締役となる髙橋と後に五代目となる佳代でした。
大手メーカーからの転職組だった髙橋は、「規模は小さくとも、みんなで一緒に仕事を作り上げるという実感を得られる企業で働きたい」と志を立てていたようです。応募当時の年齢は38歳。35歳までという募集年齢を越えていたため、書類選考で不採用としていた暁でしたが、「何とかチャンスを」と再度連絡してきた粘り強さに熱いものを感じたようでした。
髙橋にとって酒蔵の仕事は未知の世界であったものの、酒造業界自体が厳しい環境下にあることは理解していました。それでも、経理に配属されて髙橋が見た決算の数字は、予想以上の厳しい現実を示していました。
「こんな時に入社してきて、ええのかなあ」。後に部長となる田中など、髙橋の入社を心配した社員もいたようです。髙橋の耳には「もうすぐ辞めるつもりや」という先輩社員の声も届いていました。
「とにかく1年頑張ろう。だめだったらそれはその時」。厳しい中にも関わらず「この蔵が好きだ」という愛社精神が根強くあることを、髙橋は皆から感じとっていました。さらに、日本の伝統文化に根差した酒造りに携わるという高揚感もあったようです。
そんな当時の社内の空気は重く、前日の売上を発表する会議の席では「目標未達」の報告が続き、暁の機嫌は悪くなる一方でした。費用対効果を考えると出張もなかなかできず、社用車は配達用のバン1台だけ。やむなく営業回りや郵便局への行き来などに社員が自分の車を使ったり、携帯代も自分でまかなったりしていました。
髙橋と佳代が入社した年は、梅乃宿が梅酒で攻勢をかけようと大量の仕込みに取りかかった年でした。「さらに借金をするのか…」。社員には梅酒が売れるという手応えはまだなく、梅をはじめ大量の原材料を仕入れるための借り入れは無謀に思えました。それでも、仕込みから半年待てば梅酒は完成します。梅乃宿の梅酒が市場で本格的に受け入れられるかは未知数でしたが、「半年後、出来上がる梅酒にかけてみよう」と、社員一人ひとりが苦境を耐え忍ぶ厳しい日々を進んでいったのです。
再び関東で名を上げるべく、新規開拓へ
吟醸酒ブームで一時は東京で知名度を上げた梅乃宿でしたが、バブル経済崩壊や清酒離れなどにより販路は途絶えていました。そこで少しでも売上を伸ばそうと、関東への清酒販売の再構築を命ぜられたのが、経理から営業に異動となった髙橋でした。
「できることをやろう」と新規開拓に臨んだものの、経費は潤沢になく、酒を入れたずっしり重いクーラーボックスを持って電車で移動する日々。「少し置いてやるわ」と情けをかけてくれる縁のある酒販店が数軒あったものの、新規開拓はことごとく玉砕し、「また荷物を持って帰るのか」と吹き出す汗を拭きながら途方にくれたこともあったようです。
やがて梅酒が認知され、あらごし梅酒のヒットにつながっていっても、それが給料に反映されるまでには時間がかかります。リキュールの新規取引を求める電話の対応に追われ仕事量が増えたのを実感した福山が、梅乃宿の本格的な回復を肌で感じたのは、ゆず酒が発売されてからのことでした。
「ゆずが売れて、改めてあらごし梅酒に目を向ける人が増えた」。営業として市場の最前線にいた髙橋も、ゆず酒で潮目が変わったのを感じていました。ヒット商品を取り上げる『日経トレンディ』をはじめ、さまざまな雑誌をめくるたびに梅乃宿の梅酒やゆず酒の記事が目に入り、関東の飲食店でも梅乃宿の酒やリキュールの瓶が並ぶようになっていました。
歯を食いしばって出荷をこなす日々
あきらめない気持ちと熱意がリキュールのヒットを生み、「暗黒」時代を脱したかに見えた梅乃宿でしたが、急激な注文増が、今度は製造・出荷ラインに大きな負荷となってのしかかりました。
予約受注をしていた当初は計画出荷ができていたものの、予約が殺到するようになると出荷現場の様子は一変。あらごし梅酒やゆず酒は用意できていても、瓶やキャップなど資材の準備が間に合わない事態が頻発しました。ラベラーはあったものの、専用ラベルを手で貼る必要のある瓶があるなど機械化は進んでおらず、資材の過不足や出荷状況を把握する仕組みも、配送準備のための場所や機材も十分ではなかったのです。
それでも、注文を受けたら少しでも早く届けるという梅乃宿のモットーを守るため、営業から商品管理に異動した田中を筆頭に部署全員が目の前の出荷をこなすことに全力であたっていました。
出荷増は売上増の証左であり、本来なら喜ばしいことなのですが「やってもやっても終わらない」。残業が続き、出荷場にずらりと並ぶ段ボールを集荷のトラックに手で積む田中には、ほっとする余裕はまったくないようでした。
それでも、多忙の合間を縫って資材管理のシステムなどが整えられ、2007年(平成19年)にはリキュール専用ラインが完成。人も増え、業務の改善が図られていきました。ただし、それを上回るほどの注文が梅乃宿に殺到することになり、出荷現場が平常を取り戻すには、まだしばらくの時間を要したのです。