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新蔵物語

創業以来、開拓者精神をもって酒造りに勤しんできた梅乃宿。 清酒を巡る環境が大きく変化する中、ブランドコンセプトである 「新しい酒文化を創造する蔵」を体現すべく奮闘してきた「蔵」を巡るものがたり。

新蔵ものがたり 第12回

カンと経験から、データ重視の酒造りへ

前回は、梅乃宿における日本酒蔵の変遷を、杜氏の交代や、日本の経済発展など社会情勢をからめながらお話しました。今回は現場側、つまり社員目線を通して、蔵とそこで働く人々の変遷を紹介したいと思います。

暁が社長になって程なく、1985年(昭和60年)にアルバイトとして梅乃宿で働き始めたのが、現在は部長を務める田中です。
田中が最初に覚えている蔵の情景といえば、蔵人たちがそれぞれ黙々と手を動かして働いている所に、夕方になると食事の匂いが漂ってきて、皆で集まって食事を楽しむ・・・、かつての日本の家庭で繰り広げられていたような、そんな風景でした。石原杜氏の下、蔵の時間はゆっくり、規則正しく流れていたのです。
髙橋杜氏に交代した1995年(平成7年)以降も、食事を一緒にしたり、泊まり仕事をしたりする「昔ながらの酒造り体制」は、蔵人こそ出稼ぎから社員蔵人に代わっても続いていました。その形が決定的に変わったと田中が感じたのは、髙橋杜氏から北場杜氏へバトンを引き継ぐ2010年(平成22年)頃のことです。
その頃になると、出稼ぎ人口の消失により、梅乃宿に限らず多くの蔵で蔵人の若返り、つまり地元人材の通年採用が進んでいました。そのことは、酒造りにつきまとう「しんどい、きつい」というイメージから早急に脱却し、若い人材がやりがいを感じる職場にする必要性を意味しました。梅乃宿では、北場杜氏の就任と同時期に製造部長になった寺澤氏が、酒造りに新風を吹き込む一翼を担いました。

現在では、昔ながらの酒造りをする蔵は明らかに減ってきています。しかし、昔に比べて各蔵の酒質が落ちたかというとそうではありません。科学に基づくデータを駆使するための機材・設備の進化と、時代が求める働き方の変化が相まって、味の再現性などが高まり、うまい酒が世に送り出されているのはご存じの通りです。
杜氏の経験値に頼った酒造りから、データを重んじる酒造りへ。梅乃宿でもその流れは勢いを増していきました。設備面でも、2007年(平成19年)のリキュールラインを皮切りに、麹室、冷蔵倉庫などを次々に新設。「アルバイトで入った頃はこぢんまりした蔵やったのになあ」と、毎年毎年、会社の規模や設備が目に見えて変わっていくさまを、田中は驚きの目で見つめていました。

リキュール部隊、前例なき道を進む

蔵の変化を、リキュール製造の側から体感していたのが、理系大学出身で、日本酒造りに惹かれて2006年(平成18年)に入社した播野です。播野が蔵に配属された当時はまだリキュールラインがなく、日本酒からリキュールまで、すべての酒造りを蔵人や皆で担当していたのは前回お話した通りです。「梅は酸っぱいからあかんけど、イチゴはおいしいなあ」と、時に皆でおこぼれを口に放り込みながら、リキュールにする梅の実やイチゴを毎日200〜300kg洗うなどの仕事が行われていました。リキュール製造課ができ、リキュール専用の製造ラインが完成した後も、ミーティングは日本酒担当とリキュール担当の隔てなく一緒に行われていたため、別の部署という意識が生まれることはありませんでした。

雰囲気は良かったものの、リキュールライン完成前は、日本酒造りのための場所をやりくりして「梅乃宿の梅酒」や「あらごし梅酒」の量産に急いで対応しなければならず、何もかもが手探り状態。リキュール用のタンクを設置したものの、いざ梅の実を仕込もうとしたら天井が低くてやりにくかったり、地面がぬかるんだり整地されていない場所もあり、フォークリフトをうまく動かせなかったり、流量計を使うなどの機械化が未整備だったためタンクに入れる水があふれそうになったり、投入する砂糖の量を一ケタ間違えて入れそうになったり・・・。経験値のないリキュール製造に試行錯誤しながら、目の前の課題をがむしゃらにこなしていく日々でした。
急激に仕込み量が増えたため、原料の受け入れや発注、アルバイトさんの手配も課題でした。発注が1日ずれて何かが1つでも不足すれば、予定していた仕込みができなくなってしまいます。パソコンでのデータ管理も当時はほとんど進んでいなかったため、間違いがないよう気を使いながら紙の資料や伝票などと格闘する毎日でした。

そんな日々も、リキュールラインが完成すると変わっていきました。最新設備の導入により効率化が図られたことはもちろん、増加する出荷をこなすために、リキュールを担当する社員や派遣社員も徐々に増えていき、瓶詰め担当、仕込み担当など役割も明確化。出退勤の時間も定時が定着していったのです。

こうして製造ラインが安定し、梅乃宿がリキュールで次々にヒットを飛ばすと、「次は何のリキュールが出てくる?」と取引先やお客さまの期待は高まります。さらに暁からは「お客さまを飽きさせないように、次のリキュールを」とげきが飛びます。新商品開発となれば、「どの果物がリキュールに合うのか、良さを引き出して酒に活かすにはどうすればいいか」と、原料選びからレシピ開発、製造工程までを1から組み立てていく必要があります。現在は企画開発部課長として商品開発や梅乃宿のIT化を担当している播野は、「山を登ったらまた次の高い山がある感じ。でも進むのみだった」と、変化続きだった道のりを振り返ります。前例なき道のりだっただけに困難はつきものでしたが、挑戦を後押しする梅乃宿の風土と、挑戦をいとわない社員の気概がリキュールを事業の大きな柱に育てたといえるかもしれません。

このようにリキュールが大きく成長していくのと歩調を合わせるように、日本酒蔵の挑戦も動き出していきます。先頭に立ってそれを率いたのが、五代目に就任した佳代でした。

 

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