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新蔵物語

創業以来、開拓者精神をもって酒造りに勤しんできた梅乃宿。 清酒を巡る環境が大きく変化する中、ブランドコンセプトである 「新しい酒文化を創造する蔵」を体現すべく奮闘してきた「蔵」を巡るものがたり。

新蔵ものがたり 第1回

プロローグ

ここは奈良県葛城市。初めて日本酒が醸造されたという言い伝えが残る万葉の地・奈良の葛城山の麓。1893年(明治26年)にこの地で産声を上げ、間もなく130年を迎えようとしている長い歴史を持つ酒蔵「梅乃宿酒造」が、今回のものがたりの舞台です。

ごあいさつが遅くなりました。私は梅乃宿の蔵元、吉田家の庭に棲まう梅の木です。酒造りを始めて以来、多くの皆さまに愛され、今は新蔵建設の計画が進むほどに発展してきた梅乃宿ですが、ここまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。

そこで、新蔵建設をはじめ新たな一歩を踏み出そうとしているこの機に、梅乃宿という蔵がたどってきた波乱万丈の日々や、蔵をめぐる人々の奮闘ぶりを、庭先からのぞいてきた梅の木として皆さまにぜひご披露したいと思いついたのです。
では早速、一緒に時間を少しさかのぼっていきましょう—。

「桶売り」が招いた、光と影

梅乃宿酒造という蔵の名前は、晴れがましいことに私にもゆかりのあるものです。
「鶯がこの春もええ声を聞かせてくれてるなあ」。葛城の地に蔵を構えた初代社長・吉田熊太郎が、蔵の庭先にあった樹齢約300年の梅の古木に目をつけ、銘柄として用いたのが『梅乃宿』です。年月を重ね、二代目の吉田熊司から1950年(昭和25年)に蔵を引き継いだ三代目・吉田武司によって、社名は初代の名を冠した「吉田熊太郎商店」から「梅乃宿酒造株式会社」へと変わりました。

戦後すぐの頃は、酒は造れば飛ぶように売れました。しかし、明治26年創業の梅乃宿は、酒蔵としては後発です。
「酒造業界で生き残っていくには、いい品質の酒を蔵の個性とし、認知してもらわんとあかん」そう考えた三代目は、酒の品質にこだわりました。その思いが蔵の酒に反映されたのでしょう。1960年(昭和35年)には、『梅乃宿』と並ぶ自社ブランドの『天下一』が3500石を売り上げたのです。『天下一』は、三代目の代に梅乃宿で展開された銘柄で、地元ブランドとして人気を博していました。

しかし、高度経済成長期のただ中に入ると、地元銘柄の清酒よりも、大手メーカーのメジャー銘柄がもてはやされるようになっていきます。梅乃宿にもその波は押し寄せ、「天下一」の売り上げは最盛期に3500石を迎えたものの、その後は下降していくことになります。

一方でメジャー銘柄の清酒の消費量は増加、大手の清酒メーカーは自社生産だけでは製造が追いつかなくなります。清酒の製造には免許が必要な上に、当時は「お宅は1000石ですよ」など造れる量に規制があり、大手メーカーといえども、売れ行き好調だからと造る数量を急に増やすことはできなかったのです。そこで大手メーカーは地方の蔵の酒を買い取り、ブレンドして販売する「桶買い」を盛んに行うようになりました。

そして梅乃宿でも、大きな決断が下されました。
「会社の経営を考え、大手メーカーに桶ごと売る『桶売り』にかじを切る」。大手メーカーの希望通りの清酒を大量に造るという三代目の宣言は、蔵始まって以来の大胆な決断だったかもしれません。
もちろん、桶売りに注力していった時代も品質へのこだわりは消えることはなく、年に1度の新酒鑑評会への出品を怠ることはありませんでした。今でいう「ブランディング」という意識が、当時既に高かったのかもしれません。

さて、桶売りを始めるにあたり、投資も思い切りよくなされました。年間5000石という大量生産体制を整えようと設備を一新。精米機や仕込みタンク、米を蒸す甑(こしき)などの大型化を図った蔵からは、蔵人たちの威勢の良い声が私のところまで聞こえてきたものです。三代目の決断は功を奏し、1970年代前半に桶売りは4000石を数えます。当初の目標の5000石もいよいよ視野に入り、造れば造るほど清酒は売れる、そんな時代がずっと続いていくと思われました。しかし。

好景気はそう長くは続きませんでした。「今月の売上はたった数本や」—。1973年(昭和48年)を境に、日本の誰もが右肩上がりを実感した高度経済成長に陰りが見え始めます。日本の清酒製造も1976年(昭和51年)にピークを迎え、やがて大手メーカーの清酒販売量は下降。桶買いの注文も激減し、業界を見渡すと、蔵をたたみ廃業する酒蔵が相次いだのです。

清酒販売の落ち込みに加え、桶売りに対応しようと大胆に行った設備投資のつけも梅乃宿を苦しめました。
折しも酒造組合に廃業を宣言すれば、廃業手当のような形でちょっとしたお金をいただくことができました。
「もうおしまいか。梅乃宿もたたむか」。そんな言葉が三代目の口にのぼります。かつてない苦境に立たされた梅乃宿を暗い影が覆い尽くそうとしていました。

そんな中、「たたむかと思った蔵なら、俺にやらせてくれ」。苦しい最中の梅乃宿で手を挙げたのが、三代目の養子として吉田家に入り、のちに四代目となる暁でした。
「桶売りではもう生き残れない、もう一度、自社ブランドへ回帰しなければ」と感じていた暁は、1979年(昭和54年)、吟醸酒の本格醸造に乗り出します。

「やるのはいいが、大きな設備投資はあかんぞ」と言われたものの、桶売り用に整えられた大量生産型の設備は吟醸酒には向きません。桶売り用設備の減価償却もまったく進んでいない中、暁は「いい酒を造るために」と吟醸酒向けに新たな投資を断行します。梅乃宿の借入金の総額は一気に倍増し、その金額は当時の売り上げの倍ほどにも膨れ上がったのでした。

 

撮影=高島不二男 月刊 居酒屋 1986年2月号(柴田書店刊)

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