新蔵物語
創業以来、開拓者精神をもって酒造りに勤しんできた梅乃宿。 清酒を巡る環境が大きく変化する中、ブランドコンセプトである 「新しい酒文化を創造する蔵」を体現すべく奮闘してきた「蔵」を巡るものがたり。
新蔵ものがたり 第4回
迫られた、新しいビジネスモデルの構築
「問屋からの売掛金の入金日が、なんで月末やなくて月頭の1日なんや」。バブルが崩壊する以前、毎月末の酒税の支払いを綱渡りで乗り切っていた当時、暁の脳裏にはそんな思いがよぎっていました。当時の借入金は売上の2倍以上。不動産を含めた梅乃宿の資産をすべて処分しても、とても返済しきれない金額です。
酒を造るには資金が必要ですが、日本酒造りは利幅が小さく、次の仕込みに資金を充てなければならないため、借金返済に回す余裕はありません。いわゆる自転車操業です。「酒造りを辞めて夜逃げするしかないかもしれん…」。そう思いつめるほど、重圧が肩にのしかかっていました。
それでも、「酒は売れている。利息さえ返せば不良債権にはならへん」、「借金があるのは信用されている証や」。こんな風に前を向ける気質が暁を支えました。折を見てはアルバイトを含めてみなで食事に出かけたり、慰安を兼ねてスキー旅行に出向いたり。ふるさとを離れ出稼ぎに来ている蔵人たちの食事にも気を配り、夜のまかないに暁が顔を出してねぎらうこともしばしばでした。
これらは、資金繰りの苦しさを社内外に悟らせないための方策でもありましたが、梅乃宿がもともと備えている家庭的な温かみや、女将としての知子の気遣いによるところも大きかったのでしょう。
ちなみに、技術のある杜氏に他の蔵から誘いの声がかかるのは当時の常識で、杜氏が数年で蔵を変わることは珍しくありませんでした。また、夏の間ふるさとに戻った杜氏や蔵人たちの間では「あそこは食事がおいしい」など各蔵の評判が飛び交っていたようです。そんな中にあって、梅乃宿では同じ杜氏が10年以上務めるのが通例でした。杜氏や蔵人の間で「あの蔵は居心地が良い」という評判が広がっていたのでしょう。
1990年代に入って数年後、そんな梅乃宿にも、バブル崩壊の影響は容赦なく襲いかかりました。
それ以前は、ふくらんだ借入金に悩まされてはいましたが、好景気ゆえに、「いらない」と断っても「資金を貸します」と言ってきたのが銀行でした。しかしバブル崩壊と同時に態度は一変、厳しい取り立てが始まりました。さらに、税理士からも、銀行からも「季節によって儲けが変わる今のやり方ではだめ。一年を通じて儲けられる仕組み作りを」と、ビジネスの平準化をことあるごとに説かれました。
今でこそ年間を通じて酒を醸す蔵が出てきていますが、当時の日本酒は季節商品でした。まず資金を投じて酒米を買い付け、秋を迎えるころに準備に取りかかり、冬に仕込みます。当然この間は利益が出ず、春になってようやく新酒の出荷が始まります。そして、その年に仕込んだ醪(もろみ)をすべて搾り終え酒造りを終える「皆造」(かいぞう)を迎えると、4月から10月までは休蔵期に入るのです。
後に五代目に就任する佳代が「夏に親に怒られると、空のタンクに入れられた」と幼少期を振り返るように、製造にも営業にも多くの人手を要する繁忙期から一転、休蔵期の蔵は蔵人の姿もなく、穏やかさと静けさに満ちていたものです。
手間がかかり原料費がかさむため利幅が小さいこと、繁忙期と休蔵期との落差が激しいこと、利益を得られる時期が限られること、卸してから利益の回収までに1年半ほどのブランクを要すること…など、酒造りは労働力の面でも売上面でも、平準化の対極にあるビジネスだったのです。
新たな道を求めて、微発泡酒に着手
「平準化といわれても、酒造りはそんなもんやない」…。綿々と続いてきた酒造りの商習慣も分からずにと、とうてい腹落ちできない様子が暁からは見て取れました。しかし「1本あたり、これだけ利益は出せてます。損益計算上は黒字です」といくら熱弁を振るっても、銀行は「売上や労働力、資金の回転率の平準化を」と取り合ってはくれません。さすがの暁も不機嫌が顔に出るようになり、社内では「銀行に行くと社長は機嫌が悪くなる」とささやかれるようになっていました。
それでも「手をこまねいていてはさらにじり貧に陥るだけ」…、その自覚が暁を突き動かし、清酒の新しい可能性の模索が始まったのです。
年間を通して安定した収入が得られないことなどがあり、ボーナスの一部が自社製品である酒という事態も起こるほど、経済的にはぎりぎりの状態ではありました。そんな状況下でも「商売を支えるのは人材や」という強い信念のもと、暁は若手の採用に積極的に動いていました。
当時の清酒造りは、冬の農閑期に米農家の働き手が蔵人としてやってくる出稼ぎに支えられていました。しかし時代の流れとともに働き手が集まりにくくなり、出稼ぎという就労スタイルが崩れてきてもいたのです。この流れをいち早く察知したことも、自社で若手人材を雇用・育成する方針の後押しになっていました。
こうして梅乃宿に集ってきた若手のチャレンジが、新しい酒造りの原動力になっていきます。
折しも1998年(平成10年)、スパークリング日本酒が世間で話題になっていました。
「微発泡酒なら、発注量に応じて日本酒を瓶詰めして発酵させればいい。日本酒造りの仕事がない夏でも業務が発生するから、仕事の平準化にもつながるのやないか」。その考えのもと、若手を中心に梅乃宿はすぐに微発泡酒の開発に取りかかります。
こだわったのは、梅乃宿の吟醸酒でおいしい微発泡酒を造るということでした。
さらに、お客さまが手に取りやすいように、飲食店で1000円程度で出せるように卸価格を設定。こうして2000年(平成12年)、梅乃宿の微発泡酒「月うさぎ」が誕生します。現在まで続く「月うさぎ」シリーズの原型となったこのお酒は、はじめに出した100ケースが瞬く間に売り切れ、その後も造れば造っただけ売れていきました。
火入れでキャップが飛ぶ!? トラブル続出
その好調の裏で、製造現場ではトラブルが噴出していました。
ご存じの通り、米と水と米麹で仕込んだ醪(もろみ)を発酵させ、搾って造るのが日本酒です。その段階で火入れをせず、酵母が生きた状態で瓶詰めをすれば、瓶内でさらに発酵が進み、炭酸ガスを含んだ発泡酒になっていきます。それを程よいところで火入れして、発酵を止めて出荷するわけですが、当時は瓶内発酵のコントロールと見極めが至難の業でした。
現在ならガス圧を機械で計算・測定して難なく行えることも、機械のない当時は感覚が頼りです。そのため、ガス圧が高くなりすぎて火入れの過程でキャップが飛んだり、瓶が割れたりする事態が頻発しました。そこでケースをすっぽりと網で覆い、万が一瓶が割れたとしても、ガラスが飛散しないように防御して火入れを行うようになりました。
ちなみに、勢いよく飛んだキャップは天井に達することもありました。今も現場の天井にキャップがくっついて残っているのを見るたびに、当時を知るスタッフは苦笑いをしているようです。
こうした失敗を繰り返しながらも「おいしいお酒を届けたい」と試行錯誤を繰り返し、ノウハウを積み重ねて品質の安定につなげていきました。ガス圧が高い、つまり炭酸が強いほどお客さまが好むという実態を踏まえ、当時としては画期的な「コカ・コーラと同等以上の炭酸の強さ」を目指した「月うさぎ」とブルーベリー味の「星うさぎ」は評判になっていきます。
しかしこの成功も、梅乃宿の経営全体から見ればあまりにも小さなものでした。事態を根底から覆す起爆剤には遠く及ばず、先の見えない暗がりの中で暗中模索を続ける日々がこの先も続いていくのでした。