梅乃宿とは
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新蔵物語

創業以来、開拓者精神をもって酒造りに勤しんできた梅乃宿。 清酒を巡る環境が大きく変化する中、ブランドコンセプトである 「新しい酒文化を創造する蔵」を体現すべく奮闘してきた「蔵」を巡るものがたり。

新蔵ものがたり 第5回

焼酎ブーム、到来。しかし…

月うさぎを売り出した2000年(平成12年)以前から、既に日本酒の販売量は低迷傾向にあり、業界に暗い陰を落としていました。月うさぎが登場したのは、そんなさなかのことでした。

「月うさぎ、注文したいんやけど」。梅乃宿が新しく売り出した微発泡の日本酒を求め、日に何件もかかってくる問い合わせの電話に「今回分は完売です。次の製造までお待ちください」と応対したのを、当時、入社したてだった社員はよく覚えているそうです。注文はあっても設備の関係で一度に製造できる量には限りがあり、残念ながら業績をばん回するにはほど遠いというのが現実でした。

「どうしたもんか、突破口どこや…」と知恵をめぐらせていた、そんなおり。

国税庁から、焼酎やリキュールに関する酒類製造免許の規制緩和が発表されたのです。酒類の製造は酒税法で参入業者が厳格に決められていましたが、規制緩和により、新規参入の道が開かれることになったのです。

「清酒という限られたパイを同業他社と競い合っても広がりはない。しんどいだけや」。日本酒蔵として土台となる質の良い酒造りにはこだわりつつも、新たな挑戦も不可欠だと感じていた暁にとって、まさに渡りに船でした。打って出る絶好の機会だと、2001年(平成13年)に大阪国税局管内でいの一番に焼酎とリキュールの製造免許を取得。すぐさま製造に着手しました。

ちなみに、大阪国税局管内で焼酎造りに手を上げた日本酒蔵はそこそこありました。以前から酒粕を利用して米焼酎を造る酒蔵は存在したため、焼酎なら取り組みやすいと考えた蔵が多かったのでしょう。一方で、リキュールに手を上げたのは梅乃宿のほかには数えるほどでした。

酒粕を使った「さなぶり焼酎」を梅乃宿が発売したのは2002年(平成14年)のことです。2003年(平成15年)になると、日本中に本格焼酎ブームが巻き起こりました。「焼酎は血糖値の上昇を抑える」といった巷(ちまた)の健康志向にも後押しされ、焼酎の出荷量が日本酒を上回ったのもこの頃。卸や販売店はいかに多くの焼酎を取りそろえるかを競うことにやっきになりました。梅乃宿にも「なんとか焼酎を納めてほしい」と矢のような依頼が届き、「さなぶり焼酎」に続けて梅乃宿が出した焼酎「弐五馬力」「参五馬力」も人気を博しました。

「地元野菜を使って奈良の特産品となる焼酎を造ってくれないか」。蔵の隣町にあたる大和高田市からこんな依頼が飛び込んできたのもこの時期でした。焼酎ブームに乗って全国でさまざまな焼酎が造られていて、梅乃宿も大和高田特産のネギや小松菜を使ったねぎ焼酎、小松菜焼酎などを製造・販売しました。

当時はこのように仕事自体には事欠きませんでした。ただ、いかんせん、梅乃宿には少量の焼酎しか造れる体制がありません。焼酎が売れても、会社として潤っているという感覚はまったくなく、清酒の売上がへこんでいるのをほんの少し補完しているという程度。むしろ「焼酎ブームでますます日本酒の販売が厳しくなった」と頭を抱えたくなる状況だったのです。

「ばたばた忙しくはしてるけど、ただ単にブームに振り回されているだけや」。そんな感覚が暁の中にも、社員の間にも芽生えていました。

リキュール製造へ、船出

時期的に焼酎に目がいきがちですが、当然ながら焼酎にだけ注力していたわけではありませんでした。

全国新酒鑑評会では2001年(平成13年)から4年連続で金賞を受賞。資金繰りは厳しくとも品質に妥協をしない酒造りを貫いていました。同時に、何とか日本酒の売上を伸ばそうと「年越し企画」など日本酒の話題作りにも力を注ぎました。この企画は、12月31日と1月1日、それぞれに搾った酒をお正月にお客さまにお届けするというもので、1999年から2000年へと年が改まるのを機にスタートしました。予約販売のため、先に売上が見込めるというメリットはありましたが、現場は年末年始に仕事に追われることになります。また運送の関係で「待ってるのに届かんぞ」と正月早々にお叱りの電話が入ることもあり、事務部門もおちおち休んではいられませんでした。それでも、何とか日本酒を売りたいという強い思いで、この企画は翌年以降も続いていきました。

ほかにも2003年(平成15年)には、創醸110周年を記念して「悠久の雫」プロジェクトをスタートさせました。備前雄町の雫採り(醪[もろみ]を酒袋に入れて吊るし、滴り落ちた雫を一滴一滴ていねいに集めたもの)の酒を10年間寝かせ、2013年(平成25年)に蔵出しするという予約制の限定販売企画です。予約したお客さまには毎年4月に180mlの小瓶をサンプルとして届け、熟成していくさまも楽しんでもらおうと案を練りました。

日本酒で売上を出すには、こうした新しい企画を次々に考えて実行していかなければなりません。焼酎は造れる量に限りがあり、ブーム自体も徐々に落ち着き始めていました。梅乃宿の先行きは相変わらず見通せず、苦しくもがくような日々が続いていました。

そんな梅乃宿にとって、日本酒、焼酎に続く3本目の矢となったのが、焼酎と同じく2001年(平成13年)に製造免許を取得したリキュールでした。

特に積極的に進めたのが梅酒でした。免許取得に先立ち以前から梅酒造りに合う日本酒の提案を行っていたことや、主原料が梅と砂糖と酒で設備投資がかからないことも暁の背中を押しました。

当時、梅酒といえば自宅で作るものというイメージがあり、市販品は、あっても大手メーカーのものに限られていました。そこで「日本酒蔵として仕込むからには」と梅酒を日本酒で仕込むことに決め、まずは6000リットルを仕込んで2002年(平成15年)の1月に売り出しました。すると2〜3カ月で即完売となったのです。

そこで翌年は倍の量を仕込みましたが、これもすぐに売り切れます。清酒と違い仕込み期間が約4カ月と短期間ですむ利点もあり、いけるという手応えを暁は感じ取っていました。

しかし、当時の梅乃宿のラインナップには、奈良特産のいちご「あすかルビー」や大和茶などを使ったさまざまなリキュールや焼酎、さらに日本酒の企画ものが入り乱れていました。反響や売上を比べても特に際だって目立つ商品はなく、社員の中ではあくまで「梅酒も多くの製品の中の1つ」という印象だったようです。後に大きな稼ぎ頭へと成長していく梅酒でしたが、その船出は決して華やかなものではありませんでした。

 

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