梅乃宿とは
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梅乃宿のパイオニアたち

酒を造るということは、日本の文化を継承するということ。 酒文化の伝道する梅乃宿のポリシーをご紹介します。

SEASON 03

梅乃宿を支える女性たち

Vol.1 激動の時代を支えた梅乃宿の女将として。

01

取締役 吉田 知子

私が吉田家に嫁いできたのは1976年。酒造業界は、まさに激動の時代でした。当時は日本酒の消費量が減少し、廃業を選択する酒造メーカーもたくさんありました。共倒れにならないように、廃業するメーカーに組合が補助金を出していたのもこの頃です。幸い梅乃宿が廃業に追い込まれることはありませんでしたが、社員の数が少なかったことから、私も米洗いから瓶詰め、配達まで何でもやりました。その時代の蔵人は、秋に来て半年酒造りをして春に帰る季節雇用。しかも、半年間働いた後にお給料が決まるというシステムでした。また、桶売りも普通に行われており、買い手が持ち帰った後で購入金額を連絡してくるということが当たり前に行われていました。円の時代にもかかわらず、日本酒の値段は何十何銭の世界。この業界だけ時が止まってしまっているかのように、昔ながらの制度が生きていたんですね。さらに昔を振り返ると、酒粕だけで人件費が出ると言われるような、アルコールであれば売れた時代もあったようです。消費者の嗜好の多様化や生活スタイルの変化が、いかに日本酒業界に大きな影響を与えたかがわかっていただけるのではないでしょうか。

振り返ってみると、私は梅乃宿の女将という立場だったのではないかと思っています。今でこそ取締役に名を連ねていますが、激動の時代を乗り越えるまでは、先に述べたように本当に何でもやりました。蔵人のお給料を計算するのも、蔵見学に来られたお得意先様の方達に蔵を案内するのも、お客さまにお料理やお酒をお出しするのも私の役目。ある時は社員として、ある時は仲居さんとして、会社全体をふわりとまとめるのが私の役目でした。梅乃宿も会社として大きくなり、お給料の計算は経理、お客さまの案内は総務や営業、女将の役割が各部署に分散され内容も充実していますが、神さまをお祀りしたり季節に合ったお花を生けたりなど、蔵としての細々としたことを継承していくのも女将の仕事。伝統の継承という視点で考えると、女将というのは造り酒屋にとって欠かせない存在なのではないかと思います。梅乃宿の現在の社長は女性ですが、女将業を兼ねるのは無理なため、社長とは別にそんな存在の人がいたら心強いですね。

梅乃宿は、日本酒仕込みのリキュールをつくったことで、全国、そして海外での知名度を手に入れました。しかし、リキュールが爆発的に売れた後も、酒造メーカーとしてのプライドを持ち続けています。動き続ける時代に合わせて変化していくことも必要。いい日本酒を造り続けていくことも大切。梅乃宿にとってのリキュールは、その両立を可能にした革新でした。

専務の時は、会長と一緒に海外の試飲会に出向くことも多く、梅乃宿のセールスマン的な役割も果たしていました。これまで、ドバイ、スイス、ブラジル、イギリス、アメリカなど、多くの国のイベントや試飲会に参加してきました。海外では梅の柄の訪問着を着て、梅乃宿をアピールすることも多いんですよ。海外の市場には伸び代がたくさんあるため、梅乃宿の成長の鍵も海外にあるのではないかと考えています。私も時代の風を読むために、日本経済新聞には隅から隅まで目を通します。社会の情勢を見ながら、さらなる海外展開のために、私は私にできる形で梅乃宿をサポートしていきたいと思っています。

会社には、アクセルとブレーキ、両方とも必要です。そして、アクセルをしっかり踏み込む時、緩める時、ブレーキを踏む時、それをジャッジすることも必要なのです。会長の社長時代は常にアクセル全開だったため、私もタイミングを見計らいながら何度もブレーキをかけました。社長がアクセルを踏んだら社員がブレーキをかける。時にはその逆のパターンも試しながら、今後もトップダウンではなく、社長と社員が議論を重ね、一丸となって進んでいく梅乃宿を目指してほしいと思っています。

吉田家の嫁として梅乃宿の一員になって、すでに40年が経ちました。情報がインターネットで大きく拡散される時代であるからこそ、これまで以上に誠実に日本酒造りに向き合い、きちんとした商品を造っていくことが梅乃宿の務め。私はそんな梅乃宿を、これからも見守っていきます。