梅乃宿とは
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新蔵物語

創業以来、開拓者精神をもって酒造りに勤しんできた梅乃宿。 清酒を巡る環境が大きく変化する中、ブランドコンセプトである 「新しい酒文化を創造する蔵」を体現すべく奮闘してきた「蔵」を巡るものがたり。

新蔵ものがたり 第6回

梅酒で起死回生のチャンス!?

2002年(平成15年)、2003年(平成16年)と2年続けて梅酒が即完売、品切れになるのを見て「よく売れている証や」と暁の気分は盛り上がっていました。しかし。

「品切れを起こしたら、居酒屋の定番メニューにはしてもらえませんよ」。冷や水をかけたのが、営業の言葉でした。当時、日本酒は冬に集中して売れましたが、梅酒などのリキュールは年を通して売れる商品だったからです。「商売として軌道に乗せるには、通年商品にせなあかん」・・・。こうして3年目には一気に10倍の量となる100トンの梅を仕入れ、量産体制を作っていく覚悟を決めたのです。梅乃宿の売上に「梅」が少なからず貢献していくさまを目にして、蔵元である吉田家の庭に棲まう梅の木の私としても少し誇らしく、うれしく感じたものです。

しかし、梅酒を手掛けて2年目までのリキュールの生産量はごくわずかでしたし、焼酎や日本酒の企画商品の売上を足しても、梅乃宿の膨れ上がった借入金の解消には焼け石に水のありさまでした。後に梅酒が梅乃宿の救世主になるなど社員には想像すらできず、社内の空気は相変わらず重く、会議では「売上が出ないのは営業のせいや」など互いを非難する声が飛ぶ始末。費用対効果が問われ、経費を考えると出張などほとんどできない状態でした。この頃の梅乃宿に似合いの言葉を探すなら「暗黒」がぴったりだったかもしれません。梅酒の通年販売への挑戦も「そんなに大量の梅を仕入れてどないなるんや」と、社内の士気は下がる一方でした。

そんな中でひねり出したのが、梅酒を年に二度、仕込むことでした。梅だけは実りの季節に一括で仕入れますが、まず仕込むのは半分のみ。半分は冷凍で保存して、仕込みを冬と夏の二度に分けたのです。原料すべてを一括購入するのは厳しくとも、仕込みを二度に分ければ、砂糖やアルコールの仕入れ費を2回に分けて払うことができる、という考えからでした。

暁に確たる自覚はなかったようですが、梅酒の増産つまり通年販売に取り組むことで、期せずして、銀行が口を酸っぱくして言っていた「資金と労働力の平準化」が少し果たされることになったのです。

さらに、仕込みを年に二度に分けるために梅を冷凍すると、冷凍によって細胞が破壊されて梅のエキスが抽出されやすくなり、長く漬けおかなくても味がよく乗っておいしくなるという発見もありました。

資金不足を補うために考え抜き、商売を立て直すために四方八方に手を尽くし、「できることは何でも」と工夫したことが、梅乃宿に運を呼び込んだのかもしれません。

こうして2004年(平成16年)には、通年販売できる生産体制を整え梅酒の増産が始まります。これら創意工夫の結果、梅乃宿の梅酒は、男性が飲んでもおいしいなどの評判をとり、製造が追いつかないほどの勢いで全国に広まっていくことになるのです。

もったいない精神が生んだ「あらごし梅酒」

梅酒の量産が始まると、仕込みを終えて引き上げた大量の梅をどうするか、という課題が持ち上がりました。仕込みは終えて廃棄対象となった梅ですから、料金を払い産業廃棄物として捨てるというのが一般的な流れです。しかし、酒米の精米で発生する米ぬかや酒を搾ったあとの酒粕など、原材料を捨てずに余すことなく使い切るというのが日本酒の造り手の習いです。日本酒蔵として「地球にやさしい企業でないとあかん」と考え、仕込みを終えた梅の活用法を探るのはごく自然のなりゆきでした。

「会社を発展させるには、人材が大事や」と、苦しい時期でも採用を継続したおかげで育ちつつあった若手社員から、「ジャムにしてみたらどうだろう」、「牛のエサにならないか」などいろいろなアイデアが集まりました。検証を重ね、実際に梅ジャムやパウンドケーキなどいくつかは商品化もしました。そんな中で最終的に残っていったのが「梅酒に梅を入れて付加価値を上げられないか」というアイデアでした。

開発の舞台となったのは、蔵の台所です。社員たちは引き上げた梅から自らの手で種を取り出しておろし金ですりおろし、ミキサーで梅酒と混ぜながら、最適な果肉量を探り続けました。

こうして、日本酒で仕込んだおいしい梅酒に、たっぷりの果肉を加えたにごり梅酒「あらごし梅酒」が誕生。2005年(平成17年)に販売をスタートさせると、瞬く間に大ヒット商品になったのです。

このようにして梅乃宿がようやく、好転の兆しをつかんだかに見えた一方で、逆風も吹き出していました。酒造業界には、日本酒を最上と考え、リキュールを邪道、色ものとみる風潮があったのです。梅酒の好調で業績が回復していったものの、「日本酒蔵が梅酒なんか造って」「日本酒蔵の面汚しだ」という声が他の蔵から上がるようになっていたのです。

同じころ社内では、梅酒をめぐる商標権問題が発覚。ほかにも、いくつかの課題が噴出していました。

 

記事=毎日新聞 2005年(平成17年)5月25日

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